「医者の不養生」は、
そうすべきとわかっていてもできないこと、しないことをたとえることわざですが
タイトルで「医者の」不養生とせず「患者の」不養生としたのは
傷病を患っている者のほうが、それを治す医者よりも
養生すべき度合いが強いと思っているからです。
痛かったり、不快だったり症状はそれぞれでしょうけれど
「養生=傷病を治そう」と励むのは医者よりもまず、患者本人であるべきだという
当たり前のことに気づいたのは、T病院で診察を受ける中
日常生活についての問診が一切なかったことがきっかけでした。
お酒を飲む、飲まない、煙草を吸う、吸わないに始まって
暴飲暴食をする、しない、規則正しい生活をする、しない
などなど
「健康に良い」のはどちらなのかが、明らかな選択肢が多数ありますが
それらについて、問診もなければ注意喚起もないという状態を不思議だなと思ってすぐ
それらを選ぶのは、医者ではなく患者本人であり
それは、誰に指図されることでもなく、自分で選び取って、自分の意志で
これ以上、健康状態が悪くならないように
できれば、少しでも健康状態がよくなるように
できることがあれば、実行していくのが当然なんだと、思うようになりました。
医者は、傷病状態が少しでも改善するように治療してくれるだけであって
それは、どこまでいってもサポートでしかなく
あくまで主体的に傷病と向き合うのは、患者本人です。
そう思えるようになって、よかったと思います。
運動や食事など、日々の生活の中で、怠けたり羽目を外したりしたくなったときも
誰かに強制されているのではなく、
自分がそうしたいから、「養生」ができます。
誰のためでもなく、自分が自分の命を守るために、
日々の生活で気を付けるべきを気を付けるだけですが
継続していく動機として、主体性はとても有効だと実感しています。
なんの根拠もなく、自分で勝手に思っているだけですが
日々の運動として、歩いて買い物に行っているとき
1歩が1秒寿命を延ばすと考えてみると、雨の日やだるい日も
歩こう、運動しようという意欲が出てきます。